〜 女将の一言 〜
「風と太陽と塩」 伊豆大島へ 後編 2月4日号
〜 善きことは、
カタツムリの速度で動く 〜
千波工場の流下式装置の建物の前で
〜千波工場へ〜
午後は、千波工場へ!
他のゲストの方々とご一緒に車に乗せていただいて、
20分ほど離れた海岸沿いにある千波工場に向かいました。
途中、岸側に地殻変動の隆起により出来た地層断面がむき出しになって
見えている所がありました。
通り過ぎただけで、ゆっくり見れなかったのは残念ですが、
幾重にもなった地層が褶曲していて
古代からの大自然の営みとエネルギーのすごさを感じました。
海岸端につき、車を降りて
海水をくみ上げている岩場の見える近くまで歩きました。
なんと風が強いことでしょう。
風と潮が混じって吹き付けてきます。
こんな強風の所に小高く立体塩田施設が建てられていました。
コンクリートの基礎の上に建てられた高さ6メートル程の木造の建物は、
回りは日光を取り入れるため、
透明なビニールのような物に覆われています。
建物は想像していたより大きなものではなく、
台風の時はどうなるんだろうと思いました。
一番の驚きは、
基礎工事の他は、従業員の方々の手作りで建てられたと聞いたことでした。
海岸線のかなたに建築中の新工場も見えました。
こちらも、工場の皆さんで作っているのです。
青空の下、大海原と大島の海岸線を見渡せる景色は最高です。
このあたりは、国立公園になっているのです。
黒潮の流れもかなり速いとか。
海水は本当にきれいです。
そして、清らかな塩作りはまさに、ここから始まるのです。
波が打ち寄せる岩場があり、
そこから海水をパイプで汲んで不純物を取り、
それを、ポンプで先程の建物の6メートルの高さの立体塩田装置の上から流します。
装置と言ってもネットや篠竹を伝わらせて流す事を繰り返し
、2,3週間かけて、太陽と風で水分を蒸発させて濃縮し、塩分濃度の濃い海水(かん水)に
していきます。
このかん水を元となり、天日塩が作られたり、平釜で炊いてあらしおが作られます。
建物の中をのぞくとぽたぽたと落ちるのしずくの音が力強く響いてきました。
〜ほししお作り〜
日差しいっぱいの温室の中で天日塩がゆっくりと出来ます
次は、ガラス張りのような温室になっている建物に行きました。
ここは、天日塩・海の晶“ほししお”の作られている所です。
一面に、30枚ほどのかん水をたたえたパレット状の入れ物が並んでいます。
うっすらと表面にほこりの様に付いているのが
海水のカルシュウムの結晶だと聞いてびっくり。
海水が蒸発し、ゆっくりと結晶していき、
人の手で撹拌されながら塩となっていきます。
根気のいる作業。
夏は1週間、冬は1ヶ月かかります。
天日だけで作られる貴重な塩です。
あまり多くは出来ない理由がわかりました。
まぶしい光を浴び説明を聞く女将。
後ろのパレットには結晶した塩がうっすら見えます。
そして、ハウスに隣接する作業場では、
計量し、袋詰作業がされていました。
手作業で丁寧にされているのが、印象的でした。
これで二つの工場にまたがっての見学が終了しました。
昼食を交え、4時間。
創業者の二人の方から、直接、お話が聞くことが出来て、
海の精の理念が伝わってきました。
「現状に満足することなく、客観性を重視して、
より良い商品作りを目指している。」とおっしゃる社長さん。
会長さんは、
「心からすすめられる塩作りで、健全で豊かな人づくり。
究極の目標は、塩が哲学をリードすることです。」と語られました。
とても、奥深い言葉です。
会長さんの目標に向かって社員の皆さんで
よりすぐれた商品作りを今後もしていって下さる事を願い、
海の精の工場を後にしました。
わくわくするような自然のあふれる島、
少しの滞在で残念でしたけど「又、来るね」と、
帰りも来た時と同じように、
岡田港から3時30分発のジェットホイルに間に合い
浜松に帰って来ました。
左:あらしお 右:天日製法の塩
当店の自慢の「おむすび」は、海の精・焼き塩を使っています。
それは、サラサラと扱いやすい為。
あらしおは当店で以前から扱っています。
きめ細やかでしっとりとしています。
普段の料理以外に梅干を漬けた時は、
塩がすぐ梅になじみ梅酢がすぐ上がるのは驚きです。
ほししおは、初めて仕入れてみました。
結晶が出来たままの"素”という感じです。
そのまま食べてみるとゴリゴリとしていますが、
旨味を感じ余韻の残る味わい。
海の命まるごといただく思いです。
〜同伴した店主のまとめ〜
人間が人間らしく健康で生活するために必要不可欠な塩。
この塩作りに人生をかけた「海の精」の創業者三人のスタッフの人生ストーリーは、
まさにインドの指導者・ガンジーの"塩の行進”日本版でもある。
*イギリス人に専売されていた塩を、
自分たちで作らんと、
アーシュラムから海岸までの385キロを24日間かけてゆっくり歩く。
「善きことは、カタツムリの速度で動く」
それは数百万人の
奇跡の大運動となった。
こうした闘いを重ねて1947年、
インドは200年にわたるくびきを断って、
悲願の独立を達成。
● 出展:デイズジャパン 裏表紙から
「風と太陽と塩」 伊豆大島へ 中編 1月29日号
〜本物の塩って?〜
今日は、塩についてお勉強しようと思います。
テキストは、工場見学でいただいた
、小冊子「正しい塩の選び方」(NPO法人 日本食用研究会)
「日本人には塩が足りない」(村上譲顕著 東洋経済新報社)、
そして我が家の食のバイブル「日本の食物史」(安達巌著 同文書院)
から、抜粋させていただきます。
■まずは国語から、塩の漢字の由来?
漢字ですから、中国にて作られた文字。
女将…どうして土編なの?
「日本の食物史」第1章 古代編
9 加工飲食料の黎明期 (4) 塩の使用 60p
人類が狩猟・漁労生活から、農耕生活に移行するにつれて、
重要度を加えていったものに
「塩」がある。
中国の「前漢」王朝が、この塩と酒と鉄の専売制を実施したのは、
紀元前1世紀のことだった。
が、この塩は岩塩であった。
それは、塩の字が「土」編だということによって明らかであるが、
朝鮮や日本には岩塩がない。
それでは縄文・弥生時代人はどうして塩を補給していたのであろうか。
中略
やはり、海水から主として塩をとったのであろう。
それは「塩(シオ)」が「潮(うしお)」につながる発音だということからみても疑いない。
■次は理科にしましょう。
女将…岩塩って?
さきほど、中国の塩は「岩塩」であった、ということを学びました。
百科事典「マイペディア」と「正しい塩の選び方」でさっそく調べました。
〜百科事典「マイペディア」〜
「岩塩」…鉱物として産する塩化ナトリウム。
不純物として硫酸カルシウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウム
硫酸マグネシウムなどが少量混在。
中略
無色が普通、ときに黄、赤、青などに着色。
内陸の海水が蒸発した結果生成されたもので、
古生代以降の地層中に岩塩層をなして分布。
米国、ドイツ、ロシアに広く産出。
〜「正しい塩の選び方」〜 8p
「岩塩はミネラル豊富?」
岩塩は大量の海水が自然に干上がってできた天然の塩で、
さぞミネラル豊富な良い塩ではないか、と思いがちです。
ところが、実は岩塩は高純度の塩化ナトリウムで、
良質なものほど(塩化ナトリウム)ミネラルを含んでいないのです。
そのわけは、ミネラル(塩類)によって結晶濃度が異なるため、
岩塩層はおおむねカルシウム塩、ナトリウム塩、カリウム塩、マグネシウム塩の
順に層状に分離して堆積しているからです。
この中でも最も厚い塩化ナトリウムの層を掘り出したのが岩塩なのです。
しかも現代では、岩塩に水を注入して溶かした濃厚塩水を汲み上げて再結晶した
岩塩が主流で、精製塩と変わらないほど高純度のものが多くあります。
炭酸カルシウムなどの固結防止剤を添加したものも多数あります。
(カルシウム豊富なんて、カン違いしないように!)
●ここで、少しブレイク!!
ドイツが岩塩の産地であることが分かったのは、あのニュースでした。
「核廃棄物処理場として、ゴアレーベンの岩塩ドームが
候補に挙げられ、住民の反対で中断」。
スーパーの塩コーナーでも、注意してみれば、
ドイツの岩塩が数種類並んでいます。
女将…結局、「海水VS岩塩」
どっちが日本人に良いの?
海水100%がおすすめ!: 「正しい塩の選び方」〜 8p
美味しくて体に良い塩を作るには、どんな原料が良いのでしょうか?
それは、ずばり海水100%です。
岩塩も塩湖水も大本をたどれば海水が起源ですが、
生成の過程でミネラルが適度に、バランス良く含まれています。
だから、海水100%を直接原料にするのがベストなのです。
(ただし、海水を原料にしさえすれば良い塩ができるというわけではなく、
製法も問題になります。
原料と製法があいまって良い塩ができるのです。)
女将…少し合点しました。
それでは、ヨーロッパの人たちは、
ミネラルが不足しませんか?
村上譲顕氏(海の精株式会社代表取締役)が、
彼の著書「日本人には塩が足りない」の中で、次のように答えています。
〜どこの国の塩がいいの? 163P
ヨーロッパなどの土中にはミネラル分が多く含まれており、
水もカルシウムやマグネシウムなどを多く含んだ硬水です。
ヨーロッパ人は水からミネラルが摂取できるので、
塩はミネラル分の少ない岩塩でもいいのです。
一方、日本は火山灰土で、
土中のミネラル分が少なく、水もミネラルを含まない軟水です。
日本人には、水からミネラルが取れないので
カルシウムやマグネシウムなどのミネラル分が豊富な、
純度の低い海塩が必要なのです。
女将…これで、なんとなく合点!!
■最後は、日本の塩の歴史
女将…そうよね。
歴史は大切だわね。
小冊子「正しい塩の選び方」(NPO法人 日本食用研究会)より
昭和46年(1971年) 法律によって、
日本で伝統的に行われてきた塩田式の自然な製塩法が廃止。
旧日本専売公社による
イオン交換式という化学工業的な製塩法に全面的に切り替えられ、
全国の家庭でその専売塩を使用して来ました。
平成9年(1997年)に塩専売制度が廃止されるまで続く。
廃止されると色々な塩が作られました。
しかし、消費者が「無添加」、「ミネラル豊富」、
「まろやか」、「にがりを含む」、ミネラルバランスがよい」、
「うまみがある」、「体にやさしい」といった塩を求めているのに、
納得できる正しい表示が行われていないために選択に困っている、
というのが現状でした。
そこで、塩業界では、食用塩公正競争規約を定め、
平成22年(2010年)4月からは、
公正協議会に加入しているのが分かる「公正しお」のマークが、
規約に基づいて作られた塩の目印になります。
家庭用塩の販売企業のほとんどが公正協議会に加入しています。
記載を義務付けられた表示は製造方法として
原材料名や工程栄養表示成分が記載されています。
女将…塩について少しだけ頭に入ったわ。
まだまだチンプンカンプンだけど…。
伊豆大島の「海の精」工場見学で肌で理解したことは
これ!これ!
日本では、「しお」の正しい漢字は「潮」だってことよ。
もっと、勉強しなくちゃね!!!
そういえば、名画「サウンド オブ ミュージック」の舞台は、
オーストラリアのザルツブルクの町。
ザルツという言葉は日本語に訳すと、「塩」なのね。
奥が深すぎて、困っちゃうわね。
次回は、いよいよ後編です。
「風と太陽と塩」 伊豆大島へ 前編 1月14日号
今年の正月5日、伊豆の大島に昔ながらの伝統製法で塩を作っている
「海の精」という製塩会社に夫婦で行ってきました。
命の源、そして、調味料として「さ・し・す・せ・そ」
の中の欠かせない”塩”は大事な物だと常々思っています。
今年、当店は伝統酒、伝統食品の店としてスタートし20年目を迎えます。
振り返ればあっという間のような気もしますが、
作り手の見える商品をお客様に紹介したいと思い、
毎年、何処かの現場を訪ねてきました。
商品の作られている環境を知り、作り手から直接お話を聞いた事を、
私達の店に来て下さるお客さんに伝える事が出来るのは私たちの喜びでもあります。
20周年の節目、原点にかえる意味でも
本物の「良い塩」を作っている所を見たいと思い訪ねることにしました。
熱海港 大島行きのジェットフォイル(高速艇) 一日 2便就航
浜松から朝6時49分の新幹線で熱海に着き、
バスで熱海港まで15分、熱海港で待つこと約1時間。
9時20分発の大島行きジエットホイルに乗りました。
その日は天気は良いのですが風が強く、
初島行きの船は運航中止になってしまいました。
大島行きは出航出来ましたが、
大海原に出ると、波も荒くなって来ました。
去年の漁船の転覆事故の事を思い、荒れた海の怖さを感じました。
45分ほどでやっと島が見えて来て、かもめの一団が、波しぶきの中を
突然現れて、私たちをやさしく歓迎してくれているようで嬉しくなりました。
10時10分、風が強いため、予定の元町港ではなく、別の岡田港に到着。
大島は活火山の三原山が有名です。
人々は、そのふもとの周りで生活しています。
海の精の工場は島の2ヶ所にあり、
バスで行くのは不便だと聞き、レンタカーを借りました。
大島は離島ゆえに、本土と違い物価は高く、
レンタカー料金も6時間で4,500円(軽自動車)。
ガソリンも、1リットル170円ほどです。
しかたがないですね!!
大島は、椿とそれからできる椿油でも有名。
冬でも暖かなイメージがしましたが、
1,2月は特に風が強いそうで、
幹線道路の脇に植えられた南国を思わせるソテツの木々が
寒そうに揺れていました。
でも、この自然の風と太陽の光が、
「海の精」の塩作りには一番大切なのです。
車で10分ほどで元町にある工場に着きました。
お正月早々の見学は私達だけだと思っていましたが、
海の精の発売が30周年を迎えるという事で
雑誌の取材の人達が来ていて、
創始者の村上会長と寺田社長もいらっっしゃいました。
そして、私達夫婦も取材の見学に同行させていただく事になり、
とてもラッキーでした。
〜塩の製造過程〜
「海の精」元町工場内
早速、塩が炊き上がったという知らせで、工場内に入りました。
入り口では頭と靴にカバーをつけます。
「海の精」で作られる塩は2種類の製法で作られます。
一つは海水を流下式の装置で濃縮し、それを容器に広げ、
撹拌しながら天日に干し続ける
人工の熱を加えないで作られる国産唯一の天日塩。
この天日塩作りは別の場所にある千波工場で行われています。
会社では「海の晶ほししお」と名づけられ販売されています。
そしてもう一つがこここの工場で作られる釜炊きで作られる「海の精あらしお」です。
千波工場で汲み上げられた海水を、
大きなやぐらを組んだ上からすだれ状になった竹等に何度も繰り返して流すと
濃縮された海水(かんすい)になりそれを、
こちらの元町工場で、大きな平釜に入れ、
下から蒸気で熱し続けると、次第に水分が蒸発し、
塩分の結晶が出来ます。
左:会長の村上氏と右:社長の寺田氏に取材する女将
塩分濃度を計りながら、丁度良い濃度の具合になったところで釜揚げとなります。
釜揚げされたばかりの塩は未だにがりを含んだ水分を含んでぼっとりとしています。
別の容器に櫂で入れる時、周りに塩分が飛び散り、
床もべとべとになってしまいます。
一気に掻き出すのは、かなりの力が要ります。
その釜から掻き出されたばかりで、アツアツに結晶したばかりの塩をなめさせてもらいました。
まだ、水分を含んでじっとりしていますが、
やさしく、しょっぱさが口に広がってスーと体に入っていくようでした。
これがうちの店で売らせてもらっている「海の精」になるのだと思って感激しました。
右:本日のメインゲストである健康指導家の阿部一理先生
そして、次の工程の部屋へ。
そこでは、先程の適度に煮詰められた塩が桶の中で冷却され、
塩とにがりを含む水分とに分かれていました。
その下に結晶した塩だけを、大きな丸い平釜に入れ、
回転させ、にがりを含む水分をさらに分離させると、
釜の側面に製品となるさらっとした塩が付いてきます。
分離が終わって釜から出され「海の精」が出来上がりました。
別に出来たにがりは「海の精のにがり」として昔ながらの豆腐作り等に用途があり出荷されます。
数年前の「にがりブーム」を思い出します。
<ちょっといい話>
海の精のにがりは外食の時のスープ類に数滴入れると、味が一段と良くなるそうですよ。
試してね!!
いよいよ塩の完成
まさに海の結晶
味見をする。「実に、まろやか。海の命そのものの味」
出来上がった塩は、コシコシとした感じでとがって見えました。
その先を手でつまんで食べてみました。
ふわーとした口当たりですが、五味を感じて重みのある塩辛さでした。
また、別の部屋では”焼き塩”も作られていました。
出来上がった海の精を、丁寧に小分けし、大きなオーブンのような機械で、
600度の高温で焼くのです。そんな高温は家庭では出来ませんが、家庭で炒る場合は
ホウロクやホーローの鍋で時間をかけて炒るのが良いとの事です。
最後の過程:人間の目でチェック
黙って黙々と真剣に行う、とても根気が要る仕事です。
このようにしてやっと出来上がった塩は、袋詰前に厳しい製品チェクをされます。
机に座った検査の女性社員が、
塩の中の小さな塊りや異物を少しずつ目で見て取り除きます。
はなかなか根気のいる作業で感心しました。
最後は、「美味しい塩は海からのおくりものい」というDVDを見て前半の部終了。
昼は、おいしい手打ちそばで食事。
最高に幸せなひと時でした。
鳥と「ふゆ・みず・たんぼ」 前編 1月22日
宮城県大崎市田尻町・蕪栗沼 1月6日早朝(國昭撮影)
ラムサール条約登録の標識
今年の正月休み(5,6,7日)に、銘酒「ふゆ・みず・たんぼ」(有機米使用純米酒)を造っている
宮城県大崎市(仙台市から車で1時間)の一ノ蔵酒造と
ラムサール条約登録地に指定されている同市田尻町・蕪栗沼(かぶくりぬま)に行って来ました。
なぜ蕪栗沼?
それは、昨年の中日新聞夕刊(11月21日付)の記事に目が止まったことでした。
記事は、私が毎回楽しみに読むシリーズ「あの人に迫る」。
見出しは、「田んぼ耕さない発想転換の収穫」岩沢信夫(76) 日本不耕起栽培普及会会長
内容は以下のとおりです。
従来の日本の稲作は化学肥料、農薬、トラクターをいっぱい作ってどんどん消耗、
消費しないと国が回っていかないという考え方で、
岩沢さんはその常識に反するような田んぼを耕さない稲作に長年取り組んでいるということです。
そのヒントとなったのは、
冷害に見舞われたある年、
収穫が皆無だった田んぼの近くに、ポロリポロリと頭を垂れた稲田をいくつか見つけました。
地主を訪ねたらお年寄りで、後継者がいなくなって小さな作付け面積で手作業でやっていました。
昔ながらの水苗代で植えた苗だったのです。
苗も機械化された戦後は一般的には2.5枚の稚苗を使うのだが、
手植えの時代は5.5枚の成苗でした。しっかり成長した苗を植えることは
その後の稲の成長に大きく影響すると考えました。
耕さない田んぼは稲刈りの後、水を張り、翌年の田植えに成苗を使います。
水を張る冬期湛水によって、切り株やわらが水中で分解します。
それを養分にして藻類のサヤミドロも大量に発生し、
水中で光合成をし、酸素を供給します。
タニシ、メダカ、トンボ、カエルにイトミミズ。
イトミミズのふんはトロトロの層となって雑草の発芽を抑制します。
肥料にもなります。
近い将来、燐酸の枯渇で化学肥料がなくなります。
一番の援軍はイトミミズらしいです。
田んぼを耕すトラクターはエネルギーの塊。
不耕起栽培で使う油は、一般的な稲作の5分の1ですみます。
低コストで化学肥料も農薬も一切使わない。
不耕起ほど環境にやさしいことはない。
この記事を読んですごい事だと思いました。
しかしよく考えてみたら、私の小さいころ見た田んぼの姿です。
古来の伝統的な稲作が見直されつつある事は、
最近のエネルギー問題や、雇用、健康問題までに反映するような大きな転換期ではないかと思いました。
早速、岩沢信夫さんの著書「不耕起でよみがえる」(創森社)を購入して詳しく読んでみる事にしました。
内容は専門的で難しいのですが
田んぼに水を張り、不耕起にすると、いろいろな生物が甦えり、命の躍動感が伝わって来る写真がいっぱい。
最初に掲載されたカラー写真は、宮城県田尻町の蕪栗沼の5万羽のマガンの飛来の様子。
運命的な出会いとは、このことかも知れませんね。
沼の周りの田んぼにも水を張るようにしたら、広い地域にマガンがすみつき、
平成17年にはラムサール条約登録地域に指定されました。
町の人々も沼の周りにネオンなどの明かりをつけないと決めたり、
よい環境を残そうという強い意識をもっています。
若い農業後継者も、マガンが選んでくれた町のたんぼ作りに関心を持つようになりました。
そして、地元にある一ノ蔵酒造も、岩沢さんの指導のもと、
全国に先駆けてこの地区で不耕起・冬季湛水農法で有機栽培したささにしき米を使い、
「ふゆみずたんぼ」というお酒を発売しました。
当店でこのお酒を仕入れ、その名の由来を知り、
お酒の中に秘められたお米を巡るロマンを知る事になったわけです。
そこで、今回の旅の目的は蕪栗沼のマガンに会うことと、「一ノ蔵酒造」を訪ねることにしました。
5日は、朝7時半に家を出て、新幹線で11時半には仙台に着きました。
仙台に近づいて来ると、雪をいただく出羽山脈を遥かにのぞみ、
田んぼが一面に広がる、仙台平野が見えてきました。
想像以上の広さで感激しました。
古川駅に着いて、レンタカーを借り、次男が運転してくれました。今回は家族3人の旅です。
先ずは、近くを観光しようと登米市(とめし)の伊達氏の一族白石氏の城下町として
発達した登米町(とよまちょう)に残る武家屋敷の方へ行きました。
古い町並みの残る中にひときわ目立って2階建ての木造の建物がありました。
明治時代に建てられた小学校で国の重要文化財になっています。
中は当時の小学校の物が保存されています。
戦時中、都会からの子供たちを受け入れた様子もわかります。
その夜は町の施設のロマン館に泊まりました。
初めは農業研修の宿泊施設として建てられましたが、
蕪栗沼に沢山のマガンを呼び寄せることが出来て、冬にも観光客が訪れます。
温泉付で宿泊のみは3000円(食事は別)と安いです。
翌朝、5時半起きして宿を出て、暗闇の中、車で蕪栗沼を目指しました。
あたりが白み始め、マガンの、最初の飛び立ちが見えました。
車を降り、誰もいない沼のほとりを歩きました。
沼には何万羽というマガンが群れをなしています。
白鳥もいます。
朝日に向かって飛翔する数万羽のマガンの群れ 峰子撮影(1月6日)
日の出が見えてきました。
突然、バサ、バサ、バサと振動する大きな音とともに第2弾のマガンが飛び立ちました。
群れをなし日の出の方向に大空高く広がって飛んで行きます。
なんと神聖な瞬間だろうと感じました。
息子も「すげー!!」と感嘆の声を上げたまま立ち尽くしていました。
その後、7時半頃までに2回飛び立ちました。
マガン達は、昼間は他の沼や川に餌を求めたりして、夕方に沼に戻ってきます。
ラムサール条約登録地となっているため、
観光地でよく見られるような建物はほとんどありません。
沼への入り口の看板さえも、よく見ないと分からないほど小さく
しばらく迷いました。
それだからこそ、渡り鳥が選んだ聖域になったわけですね。
裏を返せば、守っていく地元の人々の努力の大きさを思わずにはいられません。
私達のこだわり トップ 週刊木曜日バックナンバー
鳥と「ふゆ・みず・たんぼ」 後編 2月19日
■
「一ノ蔵酒造」(大崎市松山町)へ行きました
一ノ蔵と言えば「無鑑査酒」を全国で初めて出し、級別廃止の火付け役となった蔵として有名です。
女性をターゲットに生み出した「ひめぜん」や微発砲で飲みやすい「すず音」もあります。
店のお客さんで蔵の隣町(登米市)出身の石井さんという方がいらっしゃいますが、
10年位前に、そのお兄さんが有機栽培したササニシキで「一ノ蔵」が造った純米酒も当店で売りました。
そういう事で、日本名門酒会に加盟した時から、一番、気になっていた酒蔵なのです。
小高い山の中腹に建てられ、今まで行った酒蔵のイメージではなく会社風の大きな建物です。
従業員数150名で、その内50名が酒造りにたずさわり、2万石(1.8l瓶換算で200万本)を造っています。
それも、ほとんどが、手作りということで驚きます。
早速、会長さんと営業の浅沼さんに会ってお話を伺い、それから浅沼さんに蔵を案内していただきました。
広い通路からガラス越しに、酒造りの工程を全て見ることができます。
これは、外部からの雑菌を防く目的と、たくさんの見学者にも酒造りが理解できるようにとの配慮。
お話では、「先ず、社員を大切にしている会社」と言われました。
昨年、世間では、不況でパート社員の首切りが多い中、50人のパートを
希望者全員、正社員にしたと言います。
毎年売上がダウンしている日本酒業界で、このことは驚くべきことでした。
理由として、コストパフォーマンスの酒や話題の酒を常に世に出していることが挙げられます。
しかし、それだけではないのです。
それは、一ノ蔵農社の存在です。
一ノ蔵農社とは・・・良質の酒米確保と地域社会との共生、地域農業の活性化などをめざして
平成16年より社内に立ち上げた農業部門。環境保全型農業による
酒米作りを主に、転作での長なす、そばの栽培などを行っています。
浅沼さんは、言います。
「現在は、酒造りだけでなく、農社となって、
高齢化で田畑の管理が出来なくなった農家から農地を借り入れて米作りや野菜作りまで手掛けています。
すなはち、うちの会社は6次産業です」と。
6次産業=1次産業+2次産業+3次産業で、農産物を育て、加工し販売まで一貫して行うことをいいます。
野菜は漬物に、そばの実は粉にし蕎麦として加工、
これらを町の中に建てられた、「酒ミュージアム」の中で、販売したりしています。
地元に生きる企業として当然の事として、地域の活性化や環境対策を取り入れた
事業に取り組んでいらっしゃるのもすごいですね。
「一ノ蔵 蔵開放」の時、大量に出るごみを苦慮して、
岐阜から、ちょいきずになったぐい飲み等を毎年3000個買い入れたり、
それを入れる為の袋は、ネパールからフェアトレードの布袋を購入しています。
帰りは仙台駅まで、広い仙台平野の田んぼを見ながら、
春になって苗が植えられたら一面の緑が見事だろうと思いました。
今回の旅を通し、思ったことは、日本の農業には明るい未来があるという事です。
もちろん、その為には、この様に、地方で色々と試行錯誤されている良い事がどんどん広がってゆくといいと思います。
環境も良くなっていく事はすばらしい。
そんなキィーワードとなったお酒と出会えて幸せです。
1月25日付の毎日新聞に「子供たちにこの美しい景観を」と題された記事に
私達の行った蕪栗沼が載っていていてびっくり。
地元のNPO「田んぼ」の理事長になっている岩渕成紀さんは「生きものたちと共生しながら、
減反しなくても済む適度な収量の米作り、農業経営ができるという
自信や勇気を農家のひとたちにもってもらいたい」と語っています。
大学生の息子にとっても、この様な企業のあり方を知り、とても参考になったと思いました。
「伊藤和也さんを偲ぶ写真展」へ行って
12月10日
加藤峰子
11月19日に掛川市役所で開催された「伊藤和也さんを偲ぶ写真展」に行ってきました。
政情不安定なアフガニスタンで、若き農業技術者として現地の人々の生活向上を願い、
ボランティア活動に励んでいた中で、心無い凶弾に倒れてしまった事は本当に残念です。
7年前になりますが、
1986年からアフガニスタンで医療活動を行っている医師、中村哲さんの豊橋市での講演を
高校生だった息子と聞きにいった事を思い出しました。
中村さんはスライドで現地での活動の様子を説明してくれました。
医師として、無医村の診療に忙しく働きながらも、
干ばつによる水不足、食糧不足、伝染病の蔓延に苦しむ現地の人々と共に、
井戸の掘削作業に力を注いでいました。
当時もすでに政情不安の中、命がけの仕事でした。
彼は言っていました。
「以前は、援助する日本に対する印象はとても良かった。人々は皆が、好意的だった。
しかし今は日の丸を隠して行動しなければいけなくなっている程、治安が悪化した。」と。
私は悲しい気持ちでそれを聞いて、アメリカに追随している日本の政府に疑問を持ちました。
そして、紛争が止んで平和になってほしいと願っていました。
しかし、事件が起こってしまったのです。
未来ある青年の命が絶たれてしまいました。
伊藤さんが現地で撮った写真展の開催を知り、
中村哲さんと行動を共にした勇気ある彼の行動を実際に見てみたいと思いました。
会場となった市役所は掛川駅から25分ほど歩いた
木々に囲まれた静かな場所にありました。
入り口の写真の中で伊藤さんはやさしく微笑んでいました。
すでに、大勢の人が来ていて驚きました。
沢山の写真を、人々がそれぞれの思いで、食い入るように見ていました。
戦禍が続き、荒廃した生活での子供達が、とても明るい笑顔で映っていることに驚かされ、
写真機を向けた彼が、皆に愛されていたんだなと思いました。
現地での5年間の活動で、自分でも無口と言う彼が、最初は戸惑いながらも
故郷のお茶作りを伝えたり、料理の腕を振るって、徐々に人々に好かれていきました。
又、外国人として、常に注意深く行動しなければいけない状況であった事も知りました。
彼がボランティアを志した自筆の文を読みました。
「私は、将来にわたってアフガンで子供たちが餓える事のないように、
共に働いて、荒廃した地を作物のできる土地にしたい。
化学肥料を使っては、土地がだめになってしまう。よい土作りが必要だ。」
現地で骨を埋める覚悟で働いたのでした。
(化学肥料のことは新聞では省かれていました。)
中村さんも彼への哀悼の言葉の中でこう言っておられます。
「平和とは戦争以上の力であり、戦争以上の忍耐と努力がいる。
和也くんは、それを愚直なまでに守りました。
憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓います。」
私は亡くなられた伊藤さんと、
事件後、ただ一人残って活動している中村さんの二人の言葉をかみしめて、
何年かかろうと実る大地を作っていかなければいけないと思います。
戦争をなくし、個々の暮らしを安定させ、子供たちに明るい未来を残してあげたいと。
「亀の尾」ってすごい!!9月10日
蔵の横にたわわに実る「亀の尾米」
8月18日〜21日の夏休み,島根県浜田市で大学生活を送っている次男の所に
久しぶりに家族が集まりました。
彼の運転で各所を巡ってもらい、お財布にもやさしくて、家族のふれあいが出来た旅になりました。
さて、今回の酒蔵めぐりは、広島県三次市甲奴町の山岡酒造です。
この蔵は、漫画「夏子の酒」で有名になった「亀の尾米」を、蔵のすぐ横で蔵元自ら米作りをし、
酒も造っているという全国的に見て稀な蔵です。
その上、近年は、合鴨農法による無農薬米も作り、よりこだわりのお酒を出しているすごい蔵なのです。
まさに、「農酒一如」の世界。
この蔵との取引を初めて6年。
きっかけは、蔵の紹介文に「日本酒のシャトー版」と書かれているのに目が止まったからです。
シャトーという言葉は、フランス語で“館”。
そして、葡萄栽培から醸造まで一貫して行う生産者元詰を意味します。
かねがね一度、亀の尾の実っている時に行きたいと思っていました。
「亀の尾」とは
「亀の尾」とは水稲品種の名で1893年に冷害に苦しむ山形の地で、
小作農の安部亀治という人が周りが冷害を受けている田の中で
登熟の良い3本の穂を発見し、育てたのが後の「亀の尾」だと伝えられています。
冷害に強く食味も良い「亀の尾」は昭和10年代まで東北、北陸を
中心に普及拡大したと記録に残っています。現代は、飯米としてはササニシキやコシヒカリ、
はえぬき、ひとめぼれ等があり、又、醸造好適米は美山錦や出羽燦々、五百万石などがありますが、
これら全ては、亀の尾から生まれているのです。
*「浪漫・亀の尾列島」論創社 2001年出版 より抜粋
そうだったんだと感心して、それならば何故、戦後に姿を消してしまったのでしょうか。
コシヒカリより少し大粒ですが、稲穂の長さは10cm以上も長く、山田錦よりも長い。
戦後の収量第一、化学肥料、農薬全盛の時代に入り、大粒で背丈が高く倒れやすい、又、
害虫に弱い事などの理由で「亀の尾」は作られなくなってしまったのです。
しかし、戦後の混乱を経て、美味しくて、安心して飲める日本酒が求められるようになった今日、
「亀の尾」が復活しました。
その物語は、「夏子の酒」で広く知られる事に。
「合鴨農法による米作り」
山岡酒造は、中国山地に近い道沿いにあり、昭和12年に建てられた頑丈そうな歴史を感じさせる蔵。
玄関を入ると店になっていて、冷蔵庫には主力銘柄の「瑞冠」、「いい風、花」、「こわっぱ」が
並んでいます。
壁にはずらりと賞状が掛けられ、4代続く酒造りに対する真摯な姿勢が伝わって来ました。
他の蔵との違いは、多くの蔵が手間のかかる精米を委託していますが、山岡酒造は、
当初からの自家精米機を今も使い続けていることです。
300石(1.8g換算3万本)の小さな造りですが、あみだ車という荷揚げ道具なども使い、
杜氏、夫妻も含め6人での酒造りが効率的に行われています。
そして、夏でもひんやり感じる蔵内は自然の冷蔵倉庫。
ゆっくりと酒が熟成されます。
蔵のすぐ横に広がる田んぼにも出てみました。
山から流れる豊富な水で「亀の尾」が豊かに実っていました。
9月末には刈り入れ出来るそうです。
役目を終えた鴨はもう居ませんでしたが、田んぼの隅に鴨が集まる金網の柵がありました。
山岡社長さんのお話では、亀の尾による酒造りは15年になるそうですが、
栽培も手がかかり、酒造りもなかなか難しいと…。
しかし、酒を寝かせると良い味が生まれると言います。
田んぼから澄んだ風が吹き抜けるところでお酒を試飲しました。
「亀の尾」の米の良さを十分に引き出して、芯のしっかりした味が生まれていると思いました。
当店で、お客さんに品質で特に支持されているお酒を再確認でき、
美味しさの秘密も発見、とても幸せでした。
この文章を書いていた時、思いもかけない事件が起こりました。
事故米(汚染米)混入という、食品を扱う者の責任感が全く欠けてしまった出来事です。
規模は小さくても、より良い品質を求め努力する蔵元さんの姿勢が、改めてすばらしいと思いました。
〜浜田市(有)やさか共同農場をたずねて〜
有機農業に取り組んで35年の歴史。
やさか農場は中国山地の村・旧弥栄村(現在は浜田市弥栄町)にあります。
そこで獲れた野菜やその加工品を生協や自然食品の問屋を通し全国へ広めようとしています。
私がやさか農場の事を知ったのも、そこの製品を去年初めて店で仕入れたからです。
100%自給原料で加工された味噌、トマトジュース、甘酒は
大地の香りが伝わってくる様な味がして、とても美味しいのです。
同じ浜田市に下宿している息子にも伝えておいたところ、
興味をもったのか夏休みに研修させてもらう事に。
彼にとって、朝は7時頃から夜7時までの農作業。
高校時代ラグビーで鍛えた体でもちょっとときつかったようです。
しかし、親としては、貴重な体験をさせて頂けてとてもありがたいと思いました。
当日息子が休みを取り、農場まで案内。
市の中心から車で40分、山の中をただ走り続け、やっと着きました。
標高が高く、冷涼な弥栄村は冬は大変だろうな、と感じました。
ちょうど、社長さんの奥さんがいらっしゃり、話を伺う事が出来ました。
少し前までは、道路まで出るのも山道が整備されていなくて大変だったこと、
農産物の加工やその販路の開拓、経営の苦労話等を聞きました。
もう少しお話をと思いましたが、奥さんの忙しさを知っている息子にせかされ、
途中、たわわに実ったトマト畑(収穫作業が息子の最初の仕事)を見ながら帰りました。
息子は、そこでの仕事は、若い人達もいて楽しいと言っていました。
奥さんに「2,3日で止めてしまうと思っていた。」と言われ苦笑いしていましたが、
彼の研修を通し、私たちは一層、弥栄の地が身近になりました。
今秋、瓶詰めされるトマトジュース、とっても楽しみ!!
弥栄の大地で自然と人が循環する”農村共同体”を目指すために、
全国から若者有志が集まったことが原点の“やさか農場”。
日本の農業が見直されつつありますが、本物の農産物を求める人にとり、
重要で大切な所となるだろうと思います。
良い物の輪は確実に広がってゆくことでしょう。
アンニャに出会えてよかった 5月15日(記)
翌日4月27日の午前中、浜松で初めてのアースデイのイベントが、
日本三大砂丘の一つで有名な、中田島の遠州灘海浜公園でありました。
私たち夫婦は、店を営業していて行けないので、
昨日から、この日の手伝いの為に帰って来てくれた次男・貴昭が、
イベント会場まで車で彼女達を連れて行ってくれました。
彼が子供達の遊び相手をしたりしてくれたり、いろいろと助かりました。
海岸のごみ広いなどの清掃活動を終えた人々の前で、
彼女の「自分に出来る事をしましょう。」と訴えたスピーチや
「翔べ,クリキンディー」の歌をうたって、会場がとても盛り上がったそうです。
アンニャは、「たくさん人が集まっていて驚いた。」と言っていました。
感動のコンサート
その夜7時からはいよいよ、ビィージャでアンニャのコンサートがありました。
薄化粧をした彼女、昼間、髪を束ねたジーンズ姿と違って、
一段と美しく輝いて見えました。
シンガーソングライターに変身。
松野下さんの司会と通訳で、歌やトーク、
そしてDVDも使い、環境問題に取り組む彼女の姿や、
エクアドルでのエコ的な生活、
オーストラリア・タスマニア島での原生林伐採の現状を
わかりやすく説明してくれました。
タスマニアのDVDを紹介しながら、原生林の伐採中止を訴えるアンニャ
簡単な調理が出来る僅か2ドルの発電キッドの話はとても興味深く、
日本ではあまり普及していないのが不思議でした。
原発を推進しているから、他の発電情報が広まらないのだろうと考えられています。
CDで歌は聴いていましたが、生で聞くと、ゆったりとした彼女の生き方が声に表れて、
伸びやかで清らかな歌声は、心に響きます。

親子で歌う「翔べ、クリキンディー」
最後は、パチャが加わり、物語を朗読してくれました。
その物語は、森が燃えて、動物たちが一斉に逃げる中で、
クリキンディと言う名のハチドリが、行ったり来たりしながら、
一しずくの水を火にかけて懸命に
消そうとします。
皆がその訳を尋ねると、その小鳥は答えるのです。
「私は、私に出来る事をしているだけ」と。
そして、母と娘で「翔べ、クリキンディー」の歌を
とても楽しく歌ってくれ会場が盛り上がりました。
すばらしいコンサートに皆さんが感動したと思います。
私も考えた
アンニャが帰ってしまってから、いろいろ考えました。
日本は、大量の木材を輸入しています。
インドネシアやタスマニア等、多くの森林が伐採されています。
森林が失われる事は、そこに棲む生物も絶滅してしまいます。
私たちの便利な生活が、この犠牲の基に築かれているという事に心が痛みます。
今年の年賀状が、大手メーカーの再生紙の比率の改ざんで問題になりましたが、
根本的な問題は、より綺麗な紙を 求める私たちに大きな原因があると思います。
丁度、4月9日付の静岡新聞に「森林破壊 世界で深刻化」と題された記事が、
大きく取り上げられていました。
タスマニアで切られた木の90%が木材チップになり、
ほとんどが日本に輸出されティシューやコピー用紙になるという。
アンニャが私たちに語ってくれていた事と同じでした。
彼女は、浜松に来る途中、清水港に寄り、
輸入されたウッドチップの巨大な山を見て来たそうです。
日本の人々が、「バージンパルプで作られたネピア等のティシューを買わない」
と言ってくれるのが、
一番の解決になると言っています。
私の幼い頃は、クロチリ紙と言って、少し硬くて、けっしてソフトと言えない
漂白されない黒っぽいB5サイズの紙でした。
鼻紙にしたりトイレにも使っていました。
印刷物にはわら半紙が使われていました。
それに比べるとなんと綺麗な紙で溢れた時代になったことでしょう。
環境問題は、私たち自身の意識を変えなければ先の見えない問題になっています。
このまま行けば、人類の貴重な資源が枯渇するでしょう。
皆が、便利さを求め過ぎて、いろいろな所で、破綻が来ています。
彼女は、何事にもお金をかけない生活、人と人との繋がりを大切にして、
笑顔で暮らしていくのをモットーとした生活を望んでいます。
彼女の存在を多くの人に知ってもらいたいと思います。
そして、私も彼女から学んだ、私に出来る事を実践していくつもりです。
アンニャに出会えて、本当によかった。
あの、アンニャが我が家にやって来た5月8日(記)
我が家の玄関先:上段左上が私、右が松野下さん、下段が主人 中央が愛犬チャッピー
4月26日(土) 20:30分 アンニャファミリー我が家に到着
4月27日(日)、カレーハウスByjaでシンガーソングライターで環境活動家でもある
アンニャ・ライトさんのトーク&ライブイベントが開かれました。
その彼女がどういう訳か、家に来る事になったのです。
では、その訳を説明します。
1999年、スローライフを提唱している明治学院大学教授・辻信一さん、
スロービジネスのフェアトレードショップを
経営する中村隆一さんと一緒に
「ナマケモノ倶楽部」を作りました。
ナマケモノってなに?
ナマケモノは中南米に棲むほ乳動物です。
のんびりと木にぶら下がって過ごしていますが、
用を足すためにゆっくり地面に降りて、
木の根元に糞をすると枯葉で覆い、
木の成長を助けます。
ナマケモノの生き方をを観察すると、
今、私たちが失いかけている、低エネ、非暴力平和、
共生循環型ライフスタイルが見えてきたのです。
そこから、ナマクラのコンセプトが生まれました。
ナマクラコンセプト
ナマケモノの棲む森を守る(環境運動)
環境共生型ライフスタイルの提案(文化運動)
フェアトレードによる地域支援(エコビジネス)
私の夫は、このコンセプトに賛同し3年前からナマケモノ倶楽部に入会し、
ナマクラ会員になっています。
アンニャ・ライトさんのプロヒール
シンガーソングライター、環境活動家。スウェーデンに生まれ、オーストラリアに育つ。
マレーシアのサラワクでの森林保護運動を経て、
熱帯林の最大消費国であった日本に舞台を移して活動。
「ディープエコロジー」哲学に基づく環境教育の実践でも知られる。
1999年、辻信一をはじめとする仲間たちと「ナマケモノ倶楽部」を結成。
エクアドルを経て、現在オーストラリアで子育てをしながら
「みどりの党」のメンバーとして活躍。2004年から毎年、日本ツアーを行っている。
日本ツアー
今回3年ぶりに森林伐採問題の活動の拠点である南米のエクアドルに行く途中、
4月中旬から6月上旬まで、
スローライフを実現するための具体的な提案をしたい、と全国を周っています。
ツアーの合言葉は”SLOHAS(スローハス)”。
LOHAS(ロハス)にSLOW(スロー)のSをつけて
「健康で持続可能なスローなライフスタイル」を意味します。

我が家の食堂で: (左)パチャとヤニの子守り役をしてくれた息子の貴昭
初めて、アンニャが浜松に来る事になり
、私達夫婦も、何か役に立ちたいと思って、
彼女たちの宿泊を引き受けたのです。
40歳になる彼女は、10代のころより環境保護を訴えてきている
パワフルな女性と聞いていましたが、
初めてお会いすると、ほっそりとした長身で、
素顔が美しい2人の子供のやさしいお母さんの印象。
静岡県立大3年の松下琴美さんも通訳で同行して来てくれていますので、
アンニャからいろいろな話を聞くことができました。
現在、オーストラリアで、ほとんど一人で、流木やリサイクルの材料で自宅を建設中とか。
パチャ(7歳・女の子)、ヤニ(4歳・男の子)
2人の子供も一緒に来ていて、
パチャは
学校を休んでいますが、
親が教育し、政府機関の面接で規定の事が出来ていれば
進級や飛び級も出来るという自由な選択が日本とは大きく異なっています。
2人の子育てを通し、スローに生きることを学び
彼女自身の生き方も変わったと言います。

我が家のミニ畑で:金柑の実を摘んだヤニ君、松野下さん、アンニャ
彼女は、パーマカルチャーも実践し、自宅で、野菜や果物を育てています。
私の家の畑も見てもらいました。
店の仕事もあるので、草だらけの畑。
それでも、夫と植えたジャガイモが何とか育っています。
アンニャは、「新聞紙で草を被うといいよ。果物の木をもっと植えるといいね。」
とアドバイス。
築30年の我が家も、「補修して、もっと何十年も持たせる事が大切。」
と森林保護を訴える彼女らしく強く言ったのが印象的でした。
そして、東京は、人口が集中し、環境が最悪だと思っていると言い、
それに比べ
我が家の周りは緑も多く、
コミュニティも失われていない良い土地だと言ってくれました。
〜映画「見えない雲」の試写会を観て〜 10月25日
10月15日(月)は、神久呂の村祭りが続き、2週間ぶりに店を臨時休業しました。
ちょうど、「地震で原発大丈夫?会」の方から、牧之原市の榛原(はいばら)文化センターで
「みえない雲」と題されたドイツ映画の無料試写会の案内のパンフレットを頂いていましたので
とってもラッキィ−と思いました。
原発事故が引き起こす極限状態の中での高校生の恋愛の物語です。
7月に中越沖地震が起き、世界最大規模の刈羽原発で事故が起こったばかり、
是非、見てみたいと思っていました。
当日、掛川市の町を散策してから車で向かいました。
会場のある牧の原市は、掛川駅から南東におよそ20キロ行った場所。
お茶の産地で全国的に有名な牧之原台地を通り、
山の斜面まで整然と広がる茶畑の景色を楽しみながら行きました。
会場では私達夫婦の他、10名程の地元のお年寄りがいらっしゃり20名位が集まりました。
しかし、若い人がいないのが本当に残念に思いました。
映画はチェルノブイリ原発事故から20年経ち、恐ろしい事故の風化を無くしたい。
特に若い世代に見てもらいたいとティーンエイジャーを題材にして完成したのでした。
映画の内容(パンフレットより)
小さな街を襲う突然の大惨事。近郊の原子力発電所が事故を起こし、放射能を帯びた雲が街へと迫る。
女子高生のハンナは、転校生のエルマーから告白を受けた直後だった。
けたたましいサイレンにかき消される幸せな時間。
街は一瞬でパニックに陥り、ハンナとエルマーは極限状態で暴徒化した群集に巻き込まれ、離れ離れになってしまう。
二人に降りかかる様々な困難と恐怖。果たして二人は再び出会う事ができるのだろうか。
見終わって、極限状態で二人の愛がより深まり、支え合いながら困難に立ち向かっていく姿に
久振りに感動的な良い映画を見たと思いました。
ドイツの豊な平原を放射能の雲から逃れようとする人々の狂気や緊迫感を、
その日に通ってきた牧之原大地の茶畑と重なって、
浜岡原発で事故が起きれば、
同じようにあのパニックが起きると思うと恐ろしい。
チェルノブイリの原発事故による放射能は、ヨーロッパの近隣国に風によって拡散し、
農地を汚染し人々に大きな不安をもたらしました。
映画に出てくる高校生達が、警報に敏感に反応し、
風向きや距離を考えながら逃げる様子に、ドイツの若者達の意識の高さがうかがえました。
帰路は国道150号線を行き、浜岡原発の前を通りました。
最近では、原発が不安定な断層の上に建っていると
指摘されていますし、掛川市や牧之原市にも近い。風向きによっては、東京までも襲う事が考えられる距離です。
排気塔からは微量と言われながらも排出し続ける放射能。
会場では、お年寄り達が長年の汚染による不安を口々に訴えていらしゃった事も心に残ります。
長年住んでいる土地が汚染されて行き、それを次世代に残さなくてはいけなくなってしまうのです。
この時期に、私達住民が、被害者意識を持って、原発事業を方向転換をさせなければいけないと思いました。
DVDを買って、身近な人たちに貸してあげようと思っています。
若者達には、是非見て欲しい!!
〜柏崎と長岡の蔵訪問〜 8月20〜21日
中越沖地震で被災した柏崎市へ
長岡市内から柏崎へ行く道路が、未だ不通のところもあり高速なら大丈夫と言う事で、
高速で柏崎市内へ入りました。
市内に入ると崩れたブロック塀のガレキが道路脇に積んであったり、道路がデコボコしていたり、
全快したままの家も所々で見かけ、地震のすごさを実感。
海岸では、自衛隊が一帯にキャンプを張り、街には自衛隊の車が行き交って、
市民の復興を助けている様子が見られます。
原酒造へ行く前に昼食をとりました。
柏崎は日本で有数の漁港があり、新鮮な魚が食べれると聞いていたので、
海辺の定食屋に入り、刺身定食を注文。噂どおり、安くて美味しい。
店主の話によれば、一ヶ月以上経ってやっと2日前にガスが使えるようになって営業を再開したばかり。
とっても驚きました。
蔵倒壊の原酒造を訪問
銘酒「越の誉」で知られる原酒造へ行きました。
門を入ると、倒壊した蔵の片付けが大掛かりに行われていました。
ヘルメット姿で指揮をとっていた社長さんが、仮設の事務所で私達に会って下さいました。
挨拶をして、夫が、当店の「越の誉れ」の売上げ金の一部、そして、お店のお客さんからの義捐金をお渡ししました。
原酒造では、木造5棟の蔵と事務所が全壊してしまいました。
しかし、「その日が休日だったので50人以上の従業員が無事だったのが一番良かった。」とおしゃっていました。
そして、9月になったら、生産ラインは無事だったので、仕込みの準備に入りたいという言葉に、
私たちは敬服し、一日も早い復興を願って蔵を後にしました。
地元の大手酒店に入ってみると、壊れたフロア−が直され、へこんだ缶ビールが、かごに集められ、
安く処分されていて同業者として心が痛みました。
刈羽村の原子力発電所へ
車で海岸沿いに北へ行き、刈羽原発の広報センターへ入りました。
丁度、その日に再館したばかりでした。
館内では、地震により大きな被害を受け稼動停止となった原発について、
急遽作られたコーナーのパネルで係員が説明しながら、安全性をアピールしていました。
原発関連の建物が地盤の液状化により1メートル近く陥没した写真もあり、
原子炉の周りの設備の問題があらわれていました。
「原発から漏れた放射能は0、0000002ミリシーベルトとレントゲンによる被爆より全然わずかです。」と言っていましたが、
想定外の地震のゆれで、1歩間違えば大惨事になっていたかもしれないと思うと恐ろしい。
発電された電力は地元ではなく、東京方面に送られるものです。
日本で一番規模の大きな原発の、地震による事故は、
人々に大きな不安を与え、今後に色々に議論されるべきだと思いました。
18年ぶりに、酒屋の友人たちに会う
その夜は、夫が20年前に行ったヨーロッパのワインツアーで知り合いになった新潟の2件の酒屋さんと
長岡市内の寿司屋で会い、大きくなった子供達を交えての話はかなり盛り上がりました。
そして、そこで初めて食べた、今が旬の新潟地方の特産の「岩ガキ」。大きくてとっても美味しい。
その夜はビジネスホテルに宿泊。
銘酒 「山古志」の蔵を訪問
翌朝は長岡駅から車で10分ほどの所にあるお福酒造を訪れました。
営業の方が会ってくださり、当店で売っている「山古志」についてのお話を聞きました。
三年前に地震で壊れた蔵を新築中で、ごたごたとしている様子でした。
建物は地下50メートルのコンクリートを土台にして建てられていてかなり頑丈に見えました。
杜氏の吉井民雄氏(83才)にもお会いできました。未だ、酒造りに入っていないので会えないと思っていたのに偶然でした。
そして、3年前に義捐金を送った私共のことを覚えていてくださりお礼を言われ、恐縮しましたがとても嬉しかったです。
彼はお福酒造で56年務められていますが、
その前は静岡の磐田の千寿酒造にいらっしゃたそうで浜松の事もよくご存知でした。
「蔵が再建されて、また新しい酒造りをします。」と小柄な体でかくしゃくした吉井杜氏にも合うことが出来、
本当に良かったと思いました。
今回の新潟を巡る旅は、いつもと違いました。
自然災害の猛威と、失って初めて知る自然の尊さ、
そして再び元に戻したいと願うのは、人間の本能だと強く感じました。
山古志村は浜松とは違い、山の中の生活で、冬は雪に覆われたり不便な場所ですが、
山の中で出会った人々は、人懐っこく、優しい気持ちに溢れていました。
今後、道が整備され、街から、村から人々が行き交い活気のある村になるように願っています。
9月5日の日本名門酒会のニュースで、原酒造が被害の少なかった新蔵にて仕込を開始する事が載っていました。
社員の皆さんも自宅の復旧作業もあり厳しい状況が続きますが、原社長の言う「底力」で頑張ってくれる事でしょうと。
私達も応援します。
〜山古志村に行ってきました〜 8月19〜21日
3年前の中越地震で大被害を受けた「山古志村」
地震前に収穫された米で作ったお酒が、地元の販売先も被災して、酒蔵が窮地に立たされていると新聞に載りました。
当店でも何とか協力したいと思いました。以来、その名も「山古志」純米吟醸酒を当店で売り続けています。
地震の翌年は、酒米の苗が、大雨で流されて全く出来ず、2年目にやっとお酒が出来るようになり、、少しずつ回復して来ました。
そして3年目、避難勧告が解除されて、人々が村へ帰る事が出来るという明るいニュースが伝わりました。
私は地震による報道で初めて『山古志村』を知ったのですが、日本の原風景ともいわれた自然溢れる村に、
復興したら、ぜひ1度行ってみたいと思うようになりました。
しかし,,今年7月16日に再び地震が新潟を襲いました。
柏崎市にある日本名門酒会加盟蔵で『越の誉』のお酒で知られている原酒造が、蔵が全壊し、
かなりの被害にあいました。
幸い酒のタンクは無事だったとの事で「一日も早く出荷したい」と原社長は気丈に言われました。
何と言うことでしょう。
念願だった新潟行きは、復興しつつある村と、
地震に遭ったばかりで、壊れた家々が未だそのままになっている姿を目の当たりにする旅となりました。
出発の日
19日の朝、新幹線に乗り、3時間半で越後湯沢に到着。早さにびっくり。
駅で次男と合流し3人でレンタカーを借り、南魚沼から17号線を北上し、山古志を目指しました。
周りは田んぼや畑が広がって、道も広く、新潟平野を実感。
昼を過ぎていたので、息子が「腹が減ったー」と喚きだす。道の駅で昼食を取りました。
本場のコシヒカリを堪能しました。
いよいよ山古志に入り、山道を登っていきます。
所々で工事中。日曜日で、工事もストップしていたので、殆ど車も、人もいません。
あたりは緑に覆われた山々ですが、山肌がむき出しになっている箇所も多く、地震で崩れた跡だと分かります。
途中、棚田に水が張られた鯉の池がありました。山古志は「錦鯉の産地」として有名。
海外にも輸出する村の一大産業です。
冬になると屋根のある生簀に移され大切に育てられます。
2人のおばあさんとの出会い
小松倉の集落でおばあさんに会いました。
仮設から、10件が戻ったそうですが、若い人は戻らないで他に住んでしまっていると言われました。
この地には、 かつて、小松倉の人々が掘った「ズイ道」が遺されていました。
今では、横を車の通る立派なトンネルが出来ています。
しかし、大人2人が通れる、約800メートルの手掘りのトンネルは圧巻。
真っ暗な中を歩くと、昔の人達が少しでも便利に隣村に行きたいと願って掘った気持ちが伝わってきました。
近くには、姉妹が経営する「道楽 山古志」という町興しのカフェがありました。
観光客や若者が集える場所として、素晴らしいと思います。
種苧原(たねすはら)の村では、通行止めで回り道をすることになり、
途中、道を聞いたおばあさんは、2年間の仮設住宅から帰り、やっと畑が出来たと嬉しそうでした。
山古志の土地で出来るピーマンに似た、かぐら南蛮や、きゅうりを沢山くれました。
「地震の節は皆さんにお世話になった」とお礼も言われ、とても恐縮しました。
私達も、静岡のお茶をお礼に差上げました。
途中、新築の家がありましたが、1階部分がコンクリートの頑丈な基礎の上に建てられた最新型です。
そして、一番大掛かりな工事が行われている所を通りました。
周りの山が崩れ、川(芋川)がせき止められてしまったのです。
新しく道や橋が出来るのには、未だかなりの時間がかかることでしょう。
震災前、 村には小、中、高校がいくつかありました。
現在は、新しく建てられた小、中合同の一校のみ。
山古志村最大の種苧原の農協、震災前はスーパーマーケットのように品が豊富だったそうですが、
今は、品数は殆どありません。
店らしいのは酒屋が一軒だけの地区もありました。
住民の生活は、かなり不便になっていると思いました。
一日も早く、道が整備され、多くの人が訪れるようになって欲しいと願います。
蓬平(よもぎひら)温泉に泊まる
山古志より北にある蓬平温泉で3件ある宿の一つ「福引屋」に宿泊しました。
宿の女将によれば、災害からやっと再開しても、途中の道路の復旧が遅れ、
お客さんが来ることが出来ず、キャンセルされる事も多かったと言う。
そんな苦労を乗り越えて、一層のもてなしの心が生まれ、私達ものんびり寛げました。
20日 酒米「一本〆」の生産者、佐々木道夫さんに会う
朝一番で、東京にいる長男が来たので、やっと家族が揃いました。
車で温泉から30分、種苧原の農協に到着。
銘酒「山古志」の使用米、「一本〆(いっぽんじめ)」を栽培する佐々木さんに会い、ご挨拶。
早速、田んぼを案内していただきました。
車がやっと入れる狭い田んぼ道を登った先に棚田がありました。
「一本〆」が僅かに栽培され、周りはコシヒカリばかり。
酒米より、コシヒカリを作った方が、農家の収益が上がる土地柄では当然なのでしょう。
コシヒカリは未だ実をつけたばかりですが、「一本〆」はしっかりと大粒の実を付け、貫禄を見せてくれました。
生活廃水が無く、昼夜の気温の差が大きいことで良いお米が取れるという説明も納得できます。
佐々木さんは「地震の時は毎日山が崩れた。」と言い、当時は、どんなに不安だっただろうと思いました。
村に住む画家と出会う
農協で、佐々木さんとの話が終わって出ようとすると、地元の画家と称する人が現れて、アトリエに案内してくれました。
地震で全村が避難した時にも、早々、戻って自力で生活していたと言ったので驚いてしまいます。
村に魅せられ住み着いて15年以上経つそうです。
山々の景色をモチーフにした絵が素晴らしい。
美味しい山の水をご馳走になり、その上、車で柏崎市に行く高速の入り口まで案内してくれました。
日頃の、あくせくした生活を送っている私にとっては、こんなに、人々に親切にされて、感激の気持ち一杯でした。
山古志の景色に、東京に住む長男はとても感動していました。次男の方は、遠く島根県の浜田市にいますので、
「自分の住んでいる所と変わらないよ。」と言い、二人の違いが面白い。
映画「六ケ所村ラプソディ−」を見ました 平成19年7月5日
6月30日、菊川市(浜松市から車で東に40分)で行われた「六ヶ所村ラプソディー」の上映会に行ってきました。
六ヶ所村は、10年前の夏休み、家族旅行で青森の酒蔵を訪ねた時に行きました。
地図を見ながら車で行ったのですが、辺りは家も無く畑や鬱蒼とした森が続いていました。
途中、名産の“長いも”作りをしている農家の人に道を聞くと「まだ先」と言われ、
本当に辺鄙な所に核廃棄物処理施設が現れました。
当時は建設中で金網が張りめぐされ検問所が見えました。
隣に建てられた原子力センターには、音楽が流れレジャー施設のようにたくさんの人で賑わっていました。
映画を見ていたら、湿地の多いあの辺りの農地に霧が立ち込めていてとても幻想的だったことが思い出されました。
その時は、プルトニウムや、放射能汚染があんなにも自然の溢れた大地を直撃するとは思えませんでした。
しかし、今思うと、人口の最も少ない地域ゆえに建設されたと言えます。
映画の中に出てくる菊川慶子さん(58歳)は六ケ所村の出身です。
再処理施設の設置協定書が交わされた翌1986年にチェルノブイリ原発事故が起きた時は、
千葉県で3人の子供の子育て中でした。
核汚染による子供達への影響を知り、
古里の六ケ所村の再処理工場で出るプルトニウム、原子力発電所や放射能汚染のことを夢中で学びました。
周辺地域でのがんや白血病の報告。海産物や農産物、人体への蓄積。
再処理工場によっては、1日で原発1年分の放射能が放出されると指摘されている事も始めて知りました。
村を「チェルノブイリにしたくない。」と家族を説得し、六ヶ所村に戻って反対運動に参加しています。
最初は反対をしていた人々も、貧しい生活から再処理関連施設に職を求めるようになってしまいました。
菊川さんは、村に戻って、野菜を作って東京や千葉の友人に宅配しようと考えましたが、
「六ケ所村のは・・・」と言われチューリップ2万本の球根を植えました。
そして、そこに「花とハーブの里」を作って皆が集まる観光地にしたいと脱原発依存の村を目指しています。
平成19年5月19日 中日新聞(夕刊)参照
また、無農薬栽培の米作りを続け全国に宅配している苫米地ヤス子さんは呼びかけます。
放射能汚染の「数値」を確認して青森県産の農産物を買って欲しいと。
安全であれば出来るだけ青森県産を買って欲しい、
そうすれば消費者の監視の目が六ケ所村再処理工場に向けられ、
より早い段階で再処理施設が止められることになるのではと思っているそうです。
昨年の3月から試運転が始まり150メートルの煙突から空へ、
そして全長3キロもの長さの排水管を通し海へと、放射能がばらまかれてしまっています。
今年中には本稼動する予定になっています。
私たちにも出来ることを考え、宮城県での反対を訴える署名活動に協力し4月から店頭で署名を集めました。
また、「六ケ所村ラプソディー」を見ないお客様に、この現状を理解していただくために
上映会場で頂いた資料をコピーして渡しています。
このような恐ろしい事を政府が許していいのでしょうか。
国民の健康被害を考えない国がどこにあるのでしょう。
参考図書:「ヒバクシャ ドキュメンタリー映画の現場から」 鎌仲ひとみ著 影書房
「豪快な号外」を配布して 平成19年6月28日
号外を先週から店頭で配り、1週間が経ちました。
配ってみると、色々な人の声が聞けました。
あるお婆さんは、「この先、温暖化が進めば間違いなく日本は島だから沈んでいくと本当に思うよ。
これから生まれてくる子は可哀想」と嘆きました。
私と同世代の50歳の女性は「特に冬が暖かくなっていると感じる。」と言う。
鴨江小学校や興誠高校、興誠中等部等では全員に配られたと聞いて、近くの神久呂小、中学校にも
先生にお願いしてみたのですが、色々と都合が悪い(?)ので出来ないという事で残念でした。
私たちの小さな店でも号外を配り、人々に温暖化の危機感を改めて感じてもらえることが出来たと思います。
6月22日の夏至の日から3日間、全国でもキャンドルナイトの催しが行われました。
東京タワー、大阪通天閣、名古屋のテレビ塔の灯りも消されました。各地で例年以上に盛り上がりました。
また27日の夕刊には英国やドイツの研究機関の予測結果として、温暖化により2,050年までに世界で2億から
10億の気候難民が出ると言う。大規模な旱魃により生まれた難民による地域紛争が発生すると言う仕組みも警告
されているという。(静岡新聞6月27日夕刊)
今年の春に届いた秋田の酒蔵便りには「、昨年の大雪とうって変わって今年は、暖かく雪が少ない。
このようなのは何十年ぶりかというより過去には体験がない。」と蔵元が言っていました。
美味しい酒造りにも大きく影響が出て来そうで心配です。
「豪快な号外」を読んで 平成19年6月21日
今週6月18日の静岡新聞に「地球温暖化の危機警鐘 号外を配布」と題し、静岡市の街頭で、
大学生達が配っている写真が載っていました。
映画制作などで環境活動に取り組む元お笑い芸人の「てんつくまん」らが結成した「TEAMGOGO!2007」が
全国各地に賛同を呼びかけ3000万部を配布すると言う記事です。
その記事を読んで私達の店でも是非、お客さんに配りたいと浜松の有志の方に連絡を取り早速100部店頭で配りました。
「新聞で見たよ」とか「職場でもらった」という人もいました。他県にいる大学生の息子にも連絡すると
「今日大学でもらったよ」と言い反応の大きさに驚きました。
号外の内容も温暖化がこのまま進めば10年後の私達の生活にかなりの影響が起こるという事が
可愛い漫画の主人公と共に考えさせられます。私達が出来る小さな事を皆で実行して地球温暖化をとめましょう。
しかし、今、温暖化の原因であるCO2の排出規制が問題になっていますが、反対に排出の少ない原子力発電を
推進しようとする事は大きな間違いです。やがては地球上の全ての生物が滅んでしまうでしょう。日本で3分の1を原発に
依存しているエネルギーを皆の節約によって減らしていかなくてはいけないと思います。
私が育った頃はまさに高度成長の時代でした。小学校に入る前位迄は、
お風呂桶までといを渡しポンプで水を汲んだことを覚えています。
それからは次から次へと便利になり、目を見張るばかりで嬉しかったのがある時からは当たり前のように思えてしまったのです。
それが半世紀も経たない内に地球が病んでしまうなんて・・・。本当に危機感があります。
私も便利さを享受してきた責任を感じます。
号外の中に「コレさえやれば地球温暖化は止まっちゃうリスト」がありました。私はこれらの事をしっかり守っていきたいと思います。
また、500部追加していただきましたので店頭で一人でも多くの人に配るつもりです。
浜松隠れ食事処 紹介 :平成19年5月24日
5月21日は雲ひとつ無い五月晴れ。
店のお客さん3人と私達夫婦で奥山半僧坊にある
1日1組だけの懐石料理の「柳屋」に行って来ました。
10畳ほどの和室で、のんびりと旬の料理を堪能しました。もちろんお酒も持ち込んで・・・。
料理は全て手作りで一品一品、時間をおいて作りたての物が出てきます。
店主が凝っていると言う器も料理を引き立てています。
湯葉、ごま豆腐、山菜、どれも美味しい。
最後に立ててくれた抹茶を飲み干すと何とも言えない優雅で贅沢な気持ちになりました。
お腹も一杯、私以外は皆、ほろ酔い気分になり、少し散策をしようと、
車で奥山高原にのぼって行きました。
途中に引佐町の保養施設の「つみくさ」という建物がありました。
敷地も広くて立派な建物ですが先月4月に閉館したばかりで、
このままでは廃墟となるばかりの姿に、本当に「もったいない」の一言でした。
今年4月から市町村合併があり
旧引佐町から浜松市に移った事で、予算が削られ、維持管理が出来なくなったという事でしょうか。
それから車でもう少し登って行き、車を降りて山道を歩きました。
するとすぐ下に大観覧車が誰も乗っていないのに
回っていました。せっかくの景観が台無しと皆が思ったのでした。
久しぶりに青空の下、森林浴を満喫出来てよかったと思いながらも、
「何か変・・・」と感じた1日でした。
柳屋さんの住所
浜松市北区引佐奥山1576−3−2
п@053−543−0008
2名以上からご予約受付
清々しいお正月の酒蔵訪問記 :平成18年1月23日
〜100%純米酒を造り続ける富久錦の蔵を訪ねて〜
お正月早々4,5日と、仕込み真っ最中の兵庫県(富久錦)と京都伏見(月の桂)を
夫婦で訪ねていって来ました。
昨年暮れから各地で大雪が降ったので、汽車の窓から岐阜を過ぎると強い吹雪になり、
一面雪で覆われ、行く先大変だと、運悪く風邪を引いてしまった私は不安になりました。
しかし、兵庫や、京都には雪がなくて、底冷えのする冷たさでしたが、行動するには楽でした。
姫路から北東へバスで約1時間山道を行き、
冬枯れの田んぼの広がる播磨平野に出た所に加西市の富久錦の大きな煙突が見えました。
バスを降りると、すぐに思っていたより大きな建物の蔵元がありました。中に入ってびっくり。
大正時代に立てられた蔵を4年前に改装し、中は地元の人の手づくり民芸品などが置かれたギャラリーやレストラン、
お酒の試飲販売コーナーがありました。太い梁などはそのままです。
又、全国から集められた自然食品や調味料も並び、それらを使用したおいしい料理が評判を呼んでいます。
特に、砂糖の代わりに麹で甘味をつけた自家製アイスクリームや酒饅頭が女性に大人気です。
島田の銘酒「女泣かせ」の酒粕を使ったアイスクリームはうちの店でも売っています。
それから、蔵人さんが酒の仕込みをしている別の場所を案内してくれました。
平成4年に全量純米酒宣言をした蔵ということでとても興味がありました。
その頃、純米酒は全国でも1割も造られていませんでした。
宣言の理由を、社長さんに尋ねると「ここは、酒米の最高峰である山田錦の主産地という地の利を生かしただけです。」
と明快な答えが返ってきました。
すべて地元の酒米、山田錦やキヌヒカリを使い豊かで質のよい周りの山々からの伏流水、地元の蔵人により作られ、
まさに「地酒」が造られ、本物の酒を作りたいという社長さんの意気込みが感じられました。
当店でも「下天の夢」という純米吟醸酒を売っていますが、きれがよくすっきりとした味わいで、人気があります。
ネーミングといいラベルのデザインもスッキリしていて、斬新なこの蔵の特徴が出でいると思います。
〜にごり酒の元祖で、350年の伝統ある「月の桂」の蔵を訪ねて〜
2日目は京都伏見へ。先ずは、商売繁盛にご利益のある伏見稲荷へ。
駅からすごい人出で、押し出されるように神社に行き、初参りをしました。
地元の月桂冠のお酒がずらーと並べて奉納されてあり驚きました。
そして、いよいよ「月の桂」へ。
駅から少し離れているのでタクシーで行きました。
運転手さんによると「伏見には20以上の酒蔵があり、
月桂冠、松竹梅、黄桜等が、有名ですが、大手は蔵というよりもう工場です。」と言ったのが印象的でした。
古代よりつづく鳥羽街道沿いに「月の桂」がありました。
昔ながらの白壁に黒塗りの建物、格子窓のたたずまいに、350年の歴史が感じられ、
緊張した気持ちで中に入りました。しかし、社長さんはとても気さくな方で自ら蔵を案内してくださいました。
麹室の周りの壁は中に上から籾殻を詰めてあります。空気が自然に浄化され断熱効果もあります。
タンクの中では年末仕込んだもろみが、プチプチと小さな音を立てていました。
蔵内は新酒の香りでムンムンしています。しかし残念なことに、私の風邪は最悪に。(味も香りも分かりませーん)
この蔵は、14年前より地元、伏見で「祝」、「旭」という2種類の酒米を
農家で、無農薬で、契約栽培してもらい酒づくりをしています。その田んぼは10町歩もあるそうです。
ここ、伏見も、兵庫「灘」と並ぶ質の高い水に恵まれた土地柄で、米作りにも力を入れて本物の酒を目指しているのです。
そして、歴史ある伝統の技法を磨き、40年前には、元祖、「にごり酒」を開発しました。
にごり酒といえば「月の桂」と言われています。
しかし、当初、荷物が貨車で運ばれた時代に、生で、発泡性がある酒は、トラブルが多く、
遠く北海道までも謝りに行ったり、苦情の手紙ダンボール4箱分もあり、
今でもとってあるという大変なエピソードを伺いました。
浜松にも「月の桂を飲む会」があり毎月一回開かれ、もう300回以上続けられているという記事が
去年の秋に新聞に載っていました。
また、圧巻だったのは、蔵の屋根裏に、純米大吟醸の古酒が1、300本、磁器の甕に詰められ所狭しと並べられていたことです。
30年の古酒もあり、蔵人の入魂の酒が、次代に受け継がれていける様にと最高の技と工夫がされていました。
小泉首相もお気に入りだそうです。
蔵の玄関には蔵人たちの手作りの太いしめ縄、新酒の印である杉球が、恭しく飾られていました。
横には、室町時代の石塔が、蔵の歴史を見つめるように建っていました。
伝統に胡座をかくことなくたゆまぬ努力をされている姿は他の酒蔵だけではなく、人びとの手本となるでしょう。
京料理は「月の桂」でと言われますが、過言ではないと思いました。
2つの蔵を訪れ200倍の規模の違いのある月桂冠など大手と違い
手作りできめ細やかな酒造りが行われている様子を知ることが出来ました。
人々の暖かさの伝わる本物の日本酒をお客さんに届けたいと思います。
「ホームステイを受け入れて」 平成17年6月23日号
5月6日から2ヶ月間、アメリカの大学生を我が家に受け入れることになりました。
今回が3回目。間際になるとバタバタと大掃除をしながらどんな子がくるかと期待します。
遠い国から縁あって我が家に来てくれるのだからと家族が一丸となって迎えたいと思い、
いつもは家で無口な高校生の息子も、暗黙で協力してくれるのがうれしい。
はじめて彼を玄関で迎えたときは、聞いてはいたが195センチの高さにさすがにびっくり。
金髪で目はグリーン、がっちりとした体格だがやさしい笑顔が印象的。
靴のまま上がったので「おっと違うよ!」と早速注意してしまいました。
彼は大学で日本語を六ヶ月間習ってきてはいるが、初めは互いの言葉や習慣の違いに戸惑うことも多くて大変でした。
しかし若い彼は理解も早くて1ヶ月過ぎる頃には「まじでー」とか「やばーい」などスラングも飛び出すので大笑い。
彼は日本文化に興味をもち「武士道」(新渡戸稲造著)も英文で読んで来ていました。
中でも日本の庭園にとても興味を持っています。
そして漢字も難しいけど好きだと言います。
最初、彼の部屋は洋間を使ってもらう予定でしたが、ベッドが小さくて急遽和室に変更。
さすがに畳で座って勉強するのは窮屈だったのかな。
しばらくすると、皆がいる食卓でいつも勉強するようになってしまいました。
その姿は息子にもよい影響となるでしょう。
大学生の長男も自分の住む東京を案内してくれました。
夫はこの日のために、色々資料を用意して一生懸命分かり易く教えています。
私はわからない単語は電子辞典を指しながらの会話となり、日本語をしっかり話すのが彼にとっては勉強と開き直っています。
しかし内心はもっと英語を勉強しとけばよかったと反省。
食事はあの巨体からすると肉の塊を用意しなければと思うところですが、
日本食は健康にとてもよいと野菜もどんどん食べてくれます。
今、アメリカやヨーロッパでは日本食が見直されているのを実際に感じます。
お寿司やお饅頭が特に大好き。納豆も普通に食べました。
確かに日本食はダイエット効果もあると思いますが、
それ以上に学校までの4キロの道を自転車やウォーキング(雨の日)で行くことで、
百キロ以上あった体がだいぶスリムになりました。(7kg?ダイエット)
静岡文化芸術大の学生との交流で、初めて飲んだ日本酒の熱燗が美味しかったと彼が帰って来て言いました。
それを聞いて夫はにんまり笑顔。それ以来、いろいろなお酒を3人で楽しみながら飲んでいます。
そう、我が家は酒ストアーなのです。
それから、茶道や田植えも体験し、そして書道や柔道も習いました。
そして佐鳴台小学校で児童たちと一緒に一日、授業を受けたのですが、大きい彼はたちまち人気者になってしまったようです。
一緒に生活していて、ふっとこんなことを感じました。
のびのびと育ち、日本にきて一生懸命勉強している二十歳の彼からは、イラクと戦争をしたアメリカは見えて来ません。
あるテレビの番組で「どうして国と国とで線を引くの?」
「どうして土地と土地とで線を引くの?」と子供が言っていました。
国々が争ったり、毎日の食べ物さえ満足に得ることができない人々が大勢いる事に心が痛みます。
三回のホストファミリーを通して、国や肌の色が違っても心は通じ合えると思いますし、
我が家のような小さな交流からでも、世界が少しずつ変わっていってくれたらいいと願っています。
彼の父親からはメールや電話が何回もあります。心配する親の気持ちは何処も同じ。
お父さんが「もーしもし」と日本語で話しかけてきて、最初びっくりしましたがとてもうれしかったです。
彼は晩御飯にアメリカの料理も作ってくれました。クラブケーキといって蟹のほぐし身のハンバーグ。
とても美味しいアメリカの郷土料理に、家族一同感激。
帰国まであと10日となってしまいましたが、
日本のことをほとんど知らなかった彼が、これらの体験を通して日本の文化を理解してくれ、
母国で広めていってほしいと思っています。
「女性が幸福にならなければ世界は平和になりません」
〜ベアテ・シロタ・ゴードンさんの講演会を聞いて〜
5月1日(日)浜松市のUホールで、日本国憲法に「男女平等」を書いたベアテさんの講演会がありました。
私は、図書館で彼女の著書「1945年のクリスマス」の本を昨年読み、彼女の事は知っていましたが
いざ壇上から、流暢に話す彼女の日本語には正直びっくりしました。
少女時代(5歳から10年間)日本に住んでいたとはいえ、彼女の講演は通訳を通してだと、勝手に思って
いたからです。
戦後、間もなく新憲法が作られたわけですが、今では当然と思われている男女平等、女性の権利に
彼女がGHQ民生委員として極秘に憲法草案作りに携わっていたのでした。
6ヶ国語に堪能で、日本に10年間暮らしたことのある彼女は、日本の女性の地位が低いことに心を痛めていました。
そして各国の憲法を調べ上げ、男女平等の草案を書いたのでした。
彼女は半世紀にわたり国家の重大な機密を黙秘してこられ、戦後60年経った今、初めて本人から真相を
聞くことが出来たのはとても感激でした。
私の母と年も変わらない穏やかなおばあさんですが、女性の権利を主張する姿は毅然としていて、
こちらも背筋をピンと正して聞きました。
講演会を聞き、ねばり強く女性の権利を主張してくれた彼女がいたからこそ、
今日の日本女性があるのだと思うと改めて感謝せざるをえません。
まさに日本の女性の救世主ともいえるでしょう。
当時22歳だった彼女が憲法を起草したことは、あまりにも若すぎるのではと私も思いました。
しかし、オーストリアに生まれユダヤ人として辛苦をなめ、国際的なピアニストの父と一緒に各国を巡ったことにより、
彼女は他の国との比較もできる立派な国際人でした。
ベアテさんは「現在の日本の女性は自信を持って歩いています」と言います。
そして、今こそ平和を守るためには女性の力が重要だとも…。
私たちはそんな彼女の意志を受け継ぎ、先ず家庭を幸せに守り、
未来の子供たちの為に平和な世の中を造っていくことが大切だと思いました。
「皆様の御好意に感謝」 12月9日
女将の一言…加藤峰子
新潟酒支援で純米吟醸「山古志」を売り始めて20日余り。
思いがけず毎日新聞にも載せていただき予想以上の反響が有りました。
店頭で女性に試飲してもらうと、美味しい、飲みやすいと言っていただき、
売る側としても自信がもてました。
「山古志」一本に付き100円ずつを寄付し
又、当店の秘蔵酒をチャリティー販売した売上等で5万円が集まりました。
「山古志」を配達した先でのお客さんが多額の釣り銭を寄付してくださったり、
店頭でもお客さんが少しずつ募金してくれたことも嬉しかったです。。
小さな店ですが、主旨に賛同してくださいましたお客様を通して、
お互いに助け合う事の大切さを改めて感じることが出来たと思います。
毎日新聞11月27日付朝刊、社会面で
災害から立ち上がる人たちの明るい記事が載っていました。
長岡市の山間にある明治創業の老舗温泉旅館三軒も被災し
廃業を決め一旦は従業員130人を解雇してしまいました。
しかし、お客様からの激励に後押しされて営業を再開したと言います。
資金面では心配だが「うちが復興する事が地域全体の復興につながる。」
と旅館を支える女将さんの声。
各方面それぞれの業種で再開に向けて頑張っていらっしゃいます。
良いお米、清い水が美味しいお酒になります。
日本の原風景とも言われる美しい山古志村の棚田で、
丹精こめて造られ酒米を醸した『山古志』
その日本酒の原点を失う事は日本人の心も退廃していってしまう事ではないでしょうか。
皆さんからの募金の5万円は「山古志」を造られたお福酒造る鰍通し
一本〆生産者の方々にお見舞金として12月7日に贈らせていただきました。
本当に有難うございました。
ガンバレ新潟「山古志村」 12月2日
今年もボージョレーヌーボーの人気は高い。
過去最高の昨年より2割増の輸入量だという。日本人はお祭り事が好きだ。
普段は、一頃のワインブームは去ったが愛好者は確実に増えています。
ワインの持つおしゃれな感覚も若者達に広まる十分な要素を持っていると思います。
最近は焼酎がブームです。それも、芋焼酎が売上を伸ばしています。
血栓融解酵素があり体に良いと、ビール、日本酒からの移行組みも多い。
日本の芋が足りなくて、輸入芋も使われています。
焼酎人気が去れば作付けを増やした芋が、あまってしまうことになりかねないと心配してしまいます。
でも私は、この季節は日本酒の燗が好きです。
馥郁とした香りと共にスーと体に入っていき暖かくなり気持がホッとする感じがします。
冬は日本酒が一番と思ってしまうが、果たして巻き返せるだろうか。
日本酒が伸び悩みの折、新潟地震が起きました。
長岡市内にある知り合いの酒店も、かなりの被害にあいました。震度5では、立っていられない状態だと言います。
棚の商品は全部下ろし、下に並べて売っているそうです。
周辺の酒蔵も全壊したり、ビン詰めされた大量の酒が割れてしまった所もあります。
又、
被害がひどく全村民が避難した山古志村は、地震でかなりの棚田が水と土砂に埋もれてしまいました。
そこの棚田で取れた有機米から造った酒、純米吟醸「山古志」が、
今年の仕込みが最後になるかもしれないと新聞に載りました。
私達にも何か役立つ事が無いかと考えていた矢先でした。
我が店でも、そのお酒を売って、少しでも農家や酒蔵を応援して行きたいと考え、早速、電話をして仕入れました。
そして、「山古志」を飲んでみました。
山間を流れる清らかな水を棚田に引き、合鴨農法で作り、
天日に干した一本〆{米の品種}の力強さから来る味わいがとても素晴らしいお酒でした。
新潟では、義援金や物資の援助も多く集まっていますが、
そこの産物の良さを認め、使ってこそ、被災地の活性化につながると思います。
壊滅状態の棚田が元に戻るのは何時になるのだろうか。
再び、そこのお酒が呑める事を願わずに入られません。
私 と お 店
加藤峰子
お客様が、「この店には色々なこだわりの物が並んでいるね。
見ているだけで、楽しくなる。」と言ってくれるととても嬉しい。
夫と店を始めて14年。独立する前は夫の実家のスーパーを二人で手伝っていました。
その頃は食品や酒と言えば大手メーカーのテレビコマーシャルの商品を置けば売れるという時代。
あるとき、"良い食品を売る会"を組織した磯部氏の「食品を見分ける」という本を読み、
一部を除く殆どの商品に多量の添加物が使用されていることを知り驚きました。
他にも、色々なごまかし方、表示のトリック等…。
そこで、独立する時「私達だけでも出来るだけ良心的な商品を売っていきたい」と決意しました。
当時は、殆どの酒屋の店頭に、未成年者が自由に買える酒の自販機が並んでいました。
税務署から「自動販売機は何台設置しますか。」と問われましたが
私達は最初から置かないと決めました。
いくら良い商品を扱っても、販売の姿勢が一番大切だと思うからです。
そのことで、酒類販売の免許を下付されるのに時間が掛かりました。
こんな店がやって行けるかと周りは見ていたと思います。
良い食品を扱っていくうちに、生産者の顔も見たいと思うようになり
一年で数箇所の地域を訪ねました。
いつも家族一緒。子供が小さい頃は寝台車でオムツを替えました。
夜汽車の外に舞う雪を、未知の土地へ行くわくわくした気持ちで見ていました。
子供達にとって大人の話は退屈でしたが、終わって外で雪遊びをしたことは覚えているそうです。
今では二人とも高校生と大学生
蔵元に行くとその商品のことが良く分かり、造り手からのメッセージをお客さまに伝えることが出来ました。
1997年5月には、いもづるねっとの協賛で片山雄介氏の「命は土から人は食から」の講演会を開きました。
多くの人が参加して下さり、 食の大切さを理解してもらえたと思います。
昨年の10月にも再び片山さんを招き、神ヶ谷町で自然卵を販売している細矢さんのお宅で、
いも煮会をしながら「井筒ワインの試飲会と蔵の素料理酒のお料理会」を開き皆さんと楽しみました。
これからも「良い食品」を神久呂の小さな店から発信していきたいと思います。
〜お ま け〜
加藤国昭
私は、人呼んで"七色仮面"のおじさん。
午前中は、おにぎり屋、焼きそば屋、コロッケ屋さんのおじさん。
午後は、普通の酒屋さん。宅配業者でもあります。
時には、イベント屋さんもするときがあります。
最後に残った7番目の職業は、何と「週刊木曜日」の編集長。
そうなんです。昨年の9月から、これを細々と毎週発行しています。
読者、定期購読者数は数名かな?
いや、今年は10名以上かも!
内容は、「誰にでも理解できる食と環境問題」。
理由は、義理で購読している新聞が4誌。それと、売れ残りの週刊誌(週刊マガジン等も)
を只見るだけで廃品回収に出すのがもったいないと思うようになったから…。
これを生かすために、興味のある記事を切り抜くことにしました。
それを基に編集している次第です。
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